額田王 万葉集巻1 9
伊(き)の温泉(ゆ)に幸(いでま)す時に、額田王が作る歌
莫囂円隣大相七兄爪謁気 我が背子がい立たせりけむ厳(いつ)樫が本
言わずと知れた万葉集中最大の難訓歌である。
下三句は読めるのだが上二句は千年以上誰にも読めていない。
読めない上二句はさておき、下三句で言えば「我が背子」が誰を指すのかが最大のポイントである。
額田王は一体誰を想ってこの歌を作ったのか。それによってこの歌の意味する所は大きく違ってくる。
一般的に「背子」と呼ぶのは同母の兄弟(いろせ)や自分の夫である。
だからこれは大海皇子(おおあまのみこ)だとするのが一番無理が無い。実際「この背子は大海皇子のことか、、」といった書き方をする解説書が多い。
だがこの歌の作歌状況から推測すると、どうしてもこれは有間皇子の事に思えて仕方がない。
もしこの歌が、この時額田王が随行していた斉明天皇へ献上する為の歌だったらなおさらである。
厳樫(いつかし)とは荘厳な霊力を持つと言われる樫の木で、この「背子」はその下に立ち、神に切実な願掛けをした。
額田王は「い立たせりけむ」つまり「お立ちになったでしょう」と推量の助詞を使っている。
もし自分の夫、大海皇子がかつてこの木の下に立ったことがあると額田王に話していて、旅の途中でその木を見てその話を思い出して詠ったのなら、「かつてあなたがお立ちになった」と表現するのが自然ではないだろうか。
大海皇子は後に兄天智天皇から命を狙われるような事態に見舞われるが、この当時は母斉明天皇の御世であり差し迫って神に懇願しなければならない事情は無かっただろう。
翻って若干17歳の青年、有間皇子は生きるか死ぬかの瀬戸際の旅の途中、この樫の木に差し掛かったのだ。
額田王ならずとも、きっとこの霊木に命乞いの願掛けをしただろうと誰にも想像できる。