「気になる歌」カテゴリーアーカイブ

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(6)番外編

このところある本に嵌っている。

「万葉集難訓歌 1300年の謎を解く」(上野正彦 著)という本である。万葉集の難訓歌38首の訓解にとどまらず、従来と異なった新解釈など、500頁を越える大作である。

膨大な資料から論理的に構築されたその内容には思わず引き込まれてしまう。多少でも万葉集に興味のある方には是非一読をお勧めする。

実を言うとこの本を購入したきっかけは、私のブログをお読みいただいた著者、上野正彦氏からメールをいただいた事である。

そのメールで私の疑問としていた所を解説して頂いた。

このブログの「額田王の難訓歌」(1)~(5)までをお読みいただければ分かる通り、あくまで私の疑問は「我が背子」がなぜ有間皇子ではないのかという点であった。そう断定する解説書にはお目にかかっていない。

勿論、我々と違って専門家は立場上そう安易に断定は出来ないだろうと想像できるのだが、あまりにも大海皇子に引っ張られ過ぎていると思った。

だから私の出した結論は額田王のトラップ説だった。つまり人目を避ける為に、わざと「我が背子」と書いたのではないかという事である。

これはあくまで「額田王が斉明天皇に献上した歌」という解釈によるものである。

この点について、この本では、斉明天皇の回想歌であると言う。

つまり額田王の献上歌ではなく、「額田王が斉明天皇に代わって作った歌」だとしている。

その理由としては、七番歌、八番歌、九番歌の並びが、回想歌でなければこうならないと云うものだが、詳細は是非本を読んでほしい。

この九番歌を斉明天皇の歌ととらえれば、有間皇子を「我が背子」と表記することは自然である。

それではこの九番歌が1300年もの長きにわたって解読されなかったのは何故なのか。

氏は著書で「七」の読みを「な」と読むか「なな」と読むかによって歌全体が全く違った二通りの意味を持つと結論付けている。

この歌は作者額田王の単純なトラップではなく、より高度で緻密な計算の上に成り立った奇跡の歌だったのである。

他にもこのブログに取り上げた弓削皇子や長皇子の歌についても新解釈をしている。

実に興味が尽きない本である。

 

むささびは木末求むと    志貴皇子の歌(2)最終回

ある本に古代の猟師の猟法についての記述が有り、それによるとむささびの猟法は次のようなものだそうだ。

「むささびは木に穴をあけてそこを巣にしている。身に危険を感じるとむささびはまず木の高い方へ駆け上り、そこから別の木に飛び移ろうとする。その習性を知っている猟師はむささびの巣を見つけると、まず木を叩いてむささびを驚かせる。飛び出したむささびが木の端まで駆け上がった所を狙って撃ち落とす」

志貴皇子がむささびの猟を歌にするからには、この猟師のやり方を知っていたはずである。

そうとすればこの歌の本当の意味は、

「巣の中でおとなしくしていたむささびは(謀反の意思など持たなかった大津皇子は)、猟師に木を叩かれて(ある人の策略で)驚いて木に駆け上がったら撃ち落とされた(謀反容疑で処刑された)」

となる。

古代の宮人たちが山の猟師の猟法の知識を持っていたとは思えない。ほとんどの人は知らないだろう。

この歌の巧妙さはそこにある。つまりそれを知っている人にのみ真意が伝わり、そうでない人には逆の意味になる。

皇子の生きている時代の人には本意を知られたくなかった。ただ後世に伝わればそれで良かったのである。

だから私が訳すとしたら、

「むささびは高い木の上に追いやられて、山の猟師に遭ってしまった」である。

 

むささびは木末求むと    志貴皇子の歌(1)

志貴皇子 万葉集巻3 267
むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの山のさつをにあひにけるかも

むささびは高い木の上に登ろうとして山の猟夫に遭ってしまった。

 

これは岩波の『新日本古典文学大系』の訳文である。意味としてはこれ以外に無いという実に分かりやすい歌である。

志貴皇子は川島皇子と共に天智天皇の皇子で、壬申の乱の後は天武天皇のもと厚く庇護されてきた。

しかし天武天皇亡き後、持統天皇の時代には不遇の日々が続いたと思われる。

権力抗争の嵐の中、皇子は巻き込まれないようにじっと身を潜めていたことだろう。だから皇子の歌はどこか寂し気な陰を持つ。

数は少ないが皇子の歌はどれも名歌として知られる。

万葉集巻1 51
采女の袖吹き返す明日香風みやこを遠み徒に吹く
万葉集巻1 64
葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ

 

これらは特に有名な歌だが、むささびの歌はちょっと趣が違う。

今は廃墟となってしまった明日香の里を吹き抜ける風のむなしさはそのまま皇子の心であり、鴨の羽がひに降る霜の冷たさも身に染みる実感としてのものだろう。

しかしむささびの歌はどこか冷たく言い放っている感じがする。

「むささびは木の高い所に登ろうとして猟夫に見つかってしまった」、たしかにむささびにとっては不幸な出来事だが、そこに皇子自身の思いを託すような表現は無い。

なぜ皇子はこんな素っ気ない歌を残したのだろうか。

実を言うとこの歌は、何らかの寓意を含む歌ではないかと指摘するものも多い。

となればこれは大津皇子謀反事件の直後でもあり、自分の兄、川島皇子が無慈悲な通報者として、周囲から冷たい目で見られていたことからも、このむささびは大津皇子を指しているだろうと想像できる。

となればこの歌は、「大津皇子は天皇の地位を得ようとして、捕らえられてしまった」という意味になる。

時の最高権力者である持統天皇に阿った歌になるが、果たしてそれが皇子の真意なのだろうか。

持統天皇の意に沿う歌を作るのなら、わざわざ分かりにくいむささびなどに託す意味がない。

もっと直接的な表現をした方が余程効果的に思える。

私はこの歌は、一見大津皇子を揶揄するように見せかけて、実は事件の真相を暗示する巧妙な歌だと思う。

なぜこんな表現をしたかと言えば、それはまだ持統天皇の時代だったからである。

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(4) 最終回

冒頭に戻って、兄長皇子の警告とは何だったのか。

今となっては分かりようも無いが、あの会議で恐れず発言する様子を見れば、弓削皇子は正義感の強い、しかも熱血漢だったと思われる。

その上持統天皇から反体制と目されていれば、どんな危険が身に及んでも仕方がない。

兄が弟の身を案ずるような事態も多々あったのではないだろうか。

弓削皇子 万葉集巻3 242
滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに

滝の上の三船山に掛かっている雲がいつまでもそこに留まることが無いように、私の命もいつまであるものではない

 

この歌そのままに、弓削皇子はあの会議からわずか三年後に亡くなっている。

皇子が早世したため、病弱だったという説が多いが、その根拠となっているのはこの歌のみである。

死因については史書には無い。

 

皇子は額田王への歌で、「昔を懐かしむ鳥でしょうか。鳴きながらこの池の上を飛んでいきます」と言っている。

つまりその鳥に自分自身を重ねているのだ。

この歌を読んだ額田王は即座に理解した。そして彼女は皇子に限りない危うさを感じ取った。

だから「その鳥はほととぎすです」と返したのだ。

ほととぎすは舌が赤いことから「鳴いて血を吐くほととぎす」などと言われる。

また別名を「たまむかえどり」とも言い、黄泉に魂を運ぶ鳥とも言われている。

「あなたはもう死を覚悟しているのですね」と言外に伝え、「私も同じ気持ちですよ」と慰めているのである。

奇しくもこの歌が額田王が万葉集に遺した最期の歌となった。

 

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(3)

長皇子の不可解な相聞歌、弓削皇子の謎かけのような相聞歌、それらを理解するための重要なヒントが「懐風藻」という漢詩集にある。

「懐風藻」は平安時代の日本最古の漢詩集である。

巻頭に大津皇子の辞世の詩や、大津皇子の謀反を通報したという親友川島皇子の詩が載り、また大津皇子事件について編者自身の感想も載っている。

この編者は解説好きと見えて、高市皇子が薨去の際、次期日嗣の皇子をどうするかという会議の模様を詳細に掲載している。

「皇太后(鵜野讃良のちの持統天皇)王侯卿氏を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす」「時に群臣各(おのがじし)私好を挟みて衆議紛うんなり」

持統天皇は皇太子高市皇子が亡くなって、次の日嗣を誰にするのか決めるために王侯卿氏を集め、議論させたがそれぞれの思惑もあって中々決まらなかった。

持統天皇の悲願は孫の軽皇子(草壁皇子の子、後の文武天皇)に譲位することであり、彼女の中でそれ以外の結論はあり得なかった。こんな会議を開いたのも、それを公然のものと決定付けるための手続きに過ぎない。

なので、ある意味台本通りに葛野王(かどののおおきみ)が進み出て、

「神代の時代から我が国はその子孫が相承けて天位を継いでいる。もし兄弟が継ぐようなことがあれば紛争のもととなる」

と発言し粗方軽皇子ということに決まりかけた。

その時、なおも異論を唱えたのが弓削皇子だった。

弓削の皇子の発言内容は記載されていないので分からないが、当然「次の日嗣には兄長皇子がなるべき」と主張したと思われる。

葛野王は一喝して弓削皇子を黙らせた。

持統は大いに満足して葛野王に正四位を与え枢機卿に取り立てた。

以上が「懐風藻」の概略である。

弓削皇子はこの一件で持統天皇から睨まれる立場になってしまった。

このような経緯を見れば、弓削皇子が額田王に宛てた歌の意味が理解できると思う。

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(2)

長皇子の弟弓削皇子もまたこんな相聞歌を残している。

吉野の地から明日香に居る額田王に贈った歌だ。

 

弓削皇子 万葉集巻2 111
古(いにしへ)に恋ふる鳥かもゆずる葉の御井の上より鳴き渡りゆく

昔を恋しく想う鳥なのでしょうか。このゆずる葉の池の上を鳴いて行きます。

 

それに和(こた)えた額田王の歌。

額田王 万葉集巻2 112
古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我がもへるごと

昔を恋しく思うその鳥はほととぎすです。私が恋しく思っているように。

 

このやり取りは一見普通だが、なんとなく違和感がある。

明日香に隠棲している老年の額田王と若い弓削皇子とでは、付き合いが有ったはずもなく、会ったことがあるかどうかもあやしい。

そんな若者から突然こんな謎めいた歌が贈られてきて、額田王は驚いたはずである。

多くの解説書では「単なる挨拶程度のもの」とか、酷いものになると「若い弓削皇子が年老いた額田王をからかったもの」などというのもある。

そんなはずはないのである。

この歌には皇子の切実な思いが秘められていて、額田王は一目で皇子の思いを見抜いた。だから「その鳥はほととぎすです。私も同じ思いです」と答えたのだ。

皇子の歌の真意を解くカギは「吉野から送った」という事と、歌の中の「ゆずる葉」という言葉である。

吉野は天武天皇にとって特別な地であり、あの「吉野の盟会」が行われた地である。

壬申の乱の後、天武天皇は今後このような事が起きないようにと、吉野の地で鵜野讃良皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、志貴皇子、川島皇子の8名で固く誓い合った。

この内、志貴皇子、川島皇子の二名は天智天皇の皇子である。

この時に皇太子は草壁皇子という事になった。

天武天皇亡き後、その誓いを皇后鵜野讃良が強引に破ってしまう。

一番有力な大津皇子を陥れ刑死させ、草壁皇子が薨去すると多くの皇承権を持つ皇子たちを抑え、自らが即位してしまったのである。

おそらく鵜野讃良はこの時高市皇子と密約を交わしたのではないかと思う。

高市皇子は最年長であり、しかも壬申の乱のときの最大の功労者だが、母親の地位が低かったため皇承順位も低かった。

鵜野讃良はそんな高市皇子を皇太子にする条件で、自らの即位に協力させたのではないだろうか。

高市皇子は実質皇太子だったのだろうが、史書に明記はされていない。

鵜野讃良の悲願は自分の孫(文武天皇)に皇位を譲る事だった。その為に何としても自分が即位し、孫(草壁の子)にバトンタッチする必要があった。

 

それらを暗示しているのが「ゆずる葉」という言葉である。

ゆずる葉は古い葉は自然に下にさがり、若葉にその場所を譲ることからそう呼ばれる。

吉野の地からの歌にゆずる葉という言葉が含まれていれば、これはもう吉野の盟会の事を言っているとしか思えない。

天武天皇という葉が落ちた後、若葉をもぎ取ってまで即位した持統天皇に対する批判が込められている。

弓削皇子は誰にも打ち明けられない思いを、かつて天武天皇を深く愛した額田王ならわかってくれると思いこの歌を贈ったのである。

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(1)

長皇子 万葉集巻2 130
丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こいた)し我が背いで通い来ね

「恋しい君よ、丹生の川の瀬は渡らずに早く通ってきておくれ」

 

万葉集巻2 相聞の部 に男女の恋歌が並ぶなか、たった一首、男性が男性にあてた相聞があるとやはり異様な感じがするものである。

しかもこの歌は長皇子が実の弟、弓削皇子にあてた歌なのでなおさら奇異である。

もともと相聞歌はお互いの近況を知らせたりするものなので、必ずしも恋歌とは限らないし、男性同士、女性同士の相聞があっても不思議ではない。

しかしこの歌は誰が読んでも恋歌にしか思えない。

まさか本当にこの二人が恋仲だったなどとは考えにくいので、ならばこの歌の真意はどこにあるのか、実に気になるところである。

いくつかの万葉集の解説を見ても、岩波の「古典文学大系」では「瀬は渡らずて」が何を意味するのか不明とある。

また「全注釈」では「言葉の意味するところが多すぎて全体にごたごたしすぎ」と散々な言われようである。

総じてこの歌の評価はあまり高いとは言えない。

男女の相聞なら四六時中でも手紙のやり取りをしたいと思うのだろうが、兄が弟に贈るとしたら何らかの必要性が有るときではないだろうか。

この歌のキーワードは「瀬は渡らずて」と「ゆくゆくと」の二つである。

 

三途の川には三つの瀬があり、生前の行いによって違う瀬を渡らされるという。

悪行を重ねた者はより深い瀬を渡らなければならない。

「瀬を渡る」という言葉からは何らかの困難や危険を連想させられる。言葉の持つイメージである。

兄は弟に「瀬を渡るな」と言っており、危険なことをしないようにと警告しているのである。

「ゆくゆくと」の意味はあまりよく分からないそうだが、何かの本に「行く行くと」の意味ではないかとあった。

私はその語感から、「ゆっくりと」のイメージを持っていたので、「行く行くと」だとむしろ反対の意味になる。

だから兄の警告は「危険なことは避けて、早く私のところに来なさい」という緊急性を持ったものになる。

弟弓削皇子の迷い込んだ危険な瀬とは、一体何だったのだろうか。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(5)最終回

伊藤博氏はその著書「万葉集 釈注」で、「もしかしたら、この上二句は額田王が斉明天皇にしか分からない表記をしたのかもしれない」という趣旨のことを言っている。

私も同感である。そうでなければ千年以上もの間誰にも読めないような書き方を額田王がするはずがない。

ここが読まれたら多分この歌が有間皇子への追悼歌だと分かってしまうのではないだろうか。

それでは何故下三句は読めるのだろうか。

私はこの下三句には、額田王が人目を欺くため、ちょっとした言葉の罠を仕掛けたのだと思う。

それが「我が背子」という言葉である。

初めに書いたように、わが背子と呼ぶのは同母の兄弟か夫に対してである。

ここに我が背子とあるだけで、誰もが大海皇子と思ってしまう。

決して有間皇子とは思わないのである。

これが全部暗号のような読めない表記では怪しまれる。

だからあえて下三句は読めるようにしてあるのだ。

これは私の勝手な想像だが、もしこの推理が当たっていたとしたら、、

中大兄皇子の目を避けるためのトラップに、以後千年の全ての人たちが引っかかっていることになる。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(4)

有間皇子を襲ったこの一連の出来事が中大兄皇子の陰謀であることは明白であり、誰よりもそれをよく知っていたのは有間皇子本人である。

それ故皇子はもう二度と生きて明日香に戻れないことは自覚していた。

それでも旅の途中皇子は一縷の望みにすがり、松の枝を結び自分の魂をそこに込めた。

もし万に一つの幸運が訪れてまた都に戻れるなら、もう一度この松を見ることが出来るだろうと歌に残した。

そんな旅の先にあったのがあの樫の霊木だったのだ。

皇子はその木の下に立ち、悲痛な思いで神に祈ったことだろう。

 

額田王は斉明天皇の御傍に仕えて紀の湯に居た。

斉明天皇の驚きと悲しみは手に取るように感じ取っていたはずである。

秋の野のみ草刈りふき宿れりし宇治のみやこの仮庵し思ほゆ

この歌は万葉集に残る額田王の最も若い時代のもので(二十歳前)、斉明天皇がかつて夫舒明天皇と訪れた宇治の地に行幸した時の作である。

この歌の斬新さは歌の最後が「思ほゆ」で終わっていることである。雑歌では訪れた土地を賛美するのがそれまでの慣例だった。その土地の神を讃えそして天皇を賛美するというのがパターンである。

まだ十代の女性の豊かな感受性は斉明天皇の心の中まで感じ取っていた。斉明天皇は夫舒明天皇との思い出の地を懐かしんでいたのである。

だから「あの仮庵が思われる」と天皇の心のままを歌にした。

斉明はこの歌に感銘を受け、以後額田王は天皇に代わって歌を作る事になる。

 

結果として有間皇子は処刑されているので、その時の斉明天皇には最早我が子中大兄皇子を抑え込む力は無かったのだろう。

額田王は斉明天皇の気持ちを汲んで何とか慰める献歌をしたいと思ったはずである。しかし傍には中大兄皇子の目が光っている。

幾人もの人を死に追いやった中大兄皇子のやり方を見ていれば、恐ろしくて皇子への哀悼の挽歌など作れなかったはずである。

その行幸の帰り道、そこにはあの樫の霊木があった。

額田王の目は、そこに佇んで一心不乱に祈る有間皇子の姿を、その幻影を見たはずである。

そして額田王は一世一代の、まさに命を懸けた挽歌を作った。

この万葉集第9番歌は間違いなく額田王の代表作だろうと思う。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(3)

有間皇子は聡明な若者だった。死の直前に詠んだ挽歌二首を見ても並の才能でないことは明らかである。

そんな有間皇子がある日突然奇行に走りだす。皇子が気が触れたという噂はあっと言う間に広がった。

皇子は我が身を守るため狂人を装ったのである。

そうしないと命を狙われるという危機感が皇子にはあった。そんな皇子の境遇を思うと、実に切なく悲しい気持ちになる。

孝徳天皇崩御の後、皇極天皇が重祚し、斉明天皇となっていた。

斉明は甥の有間皇子を可愛がっていた。だから気が触れたことを大変心配し、紀の湯に湯治に行ってはどうかと勧める。

皇子は紀の湯から戻ったあと、斉明に「大変良い所でした。病気もすっかり良くなりました」と報告した。

斉明は大変喜んで、自らも紀の湯へ行幸することになった。

この行幸に同行したのは、中大兄皇子、中命皇(なかつすめらみこと 間人皇女?)、額田王、など宮廷の主だった人の大半である。(大海皇子は同行していないと思う)

これで明日香の都はほぼ空となり、留守を預かったのが曽我赤兄である。

有間皇子は赤兄に話があるからと誘われ、赤兄の屋敷に向かう。

そこで赤兄は皇子に斉明天皇の失政を説き、今こそ立ち上がる時ですと謀反を唆す。

皇子は思わず「今こそ兵を用う時」と口を滑らせてしまう。

その瞬間皇子の脇息が壊れ、はっと我に戻った皇子は慌てて屋敷に戻り寝てしまう。

翌朝目を覚ました皇子の屋敷の周囲はすでに赤兄の兵に取り囲まれていた。

こうして皇子は捕らえられ、謀反の罪で紀の湯に居る中大兄皇子のもとへ引き立てられることになった。

 

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(2)

有間皇子は孝徳天皇の皇子である。

乙巳の変の後、皇極天皇は弟孝徳天皇に譲位する。

孝徳天皇は難波に遷都するが、左右大臣を失った後、中大兄皇子は皇后間人(はしひと)を初め宮廷人すべてを引き連れ明日香に戻ってしまう。

孝徳天皇は孤独の内に憤死してしまう。

左大臣倉橋麻呂は病死だったのだが、右大臣曽我石川麻呂はあらぬ謀反の容疑を掛けられ、山田寺で一族もろとも自害に追い込まれる。

曽我山田石川麻呂は乙巳の変の際、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を撃つためひそかに仲間に引き入れた人物である。

明日香板葺の宮の大極殿で三韓の義が行われた際、石川麻呂が奏上文を読み上げるのを合図に入鹿に切りかかったのである。

その後中大兄皇子は石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)を妻に迎える。

その妃との間に生まれたのが、太田皇女、鵜野讃良皇女の姉妹である。

太田皇女は大伯皇女、大津皇子の母親であるが若くして亡くなる。

中大兄皇子はそれほど関係の深い石川麻呂を意図的に自害にまで追い込んだ。

遠智娘はあまりの悲しみに自害する。

鵜野讃良にとってこの出来事は大きなトラウマとなったはずである。のちに彼女は甥の大津皇子に全く同じことをすることになる。

忠誠心の強い石川麻呂を亡き者にし、孝徳天皇を死に追い込んだ今、中大兄皇子にとって残る邪魔者は有間皇子ただ一人である。

 

あしひきの山のしづくに 大津皇子の相聞歌

大津皇子 万葉集巻2 107
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れし山のしづくに
石川郎女 万葉集巻2 108
我(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

 

歌自体は特にどうということの無い相聞歌だが、問題なのは大津皇子が山で石川郎女(いらつめ)を待っていることである。

この時代は男が女の許へ通うのが通常であって、こんな風に女が出向いてくるというのは不倫などの訳ありの場合がほとんどである。

石川郎女については伝不詳で、どういった女性かわかっていない。しかしこのやり取りから大津皇子と石川郎女の関係は通常ではないことが想像できる。

つまり石川郎女はだれかの妃で、これは不倫関係ではないかということである。

とするとやはり因縁の草壁皇子(皇太子)の妃だった可能性が高い。

草壁が石川郎女にあてた相聞も残っているからである。

次の歌も同じ石川郎女に関する大津皇子の歌だが、これは占いに関係してくる。

大船の津守が占に告(の)らむとはまさしに知りて我(わ)が二人寝し

「津守めの占いに出るなんて承知の上で俺たちは二人で寝たんだ」(「大船の」は「津」にかかる枕詞)

津守というのは陰陽道の名手と言われた津守連通(つもりのむらじとおる)の事である。

大津皇子は自分と石川郎女の関係を占われた事を怒っている。そして「そんな事は知ったうえで寝たんだ」と開き直っている。

大津皇子は誰かが津守に命じて自分たちの関係を占わせた事を怒ったのである。

これは明らかに政治的意図のもとに行われた占いであり、この二人の関係が例え何にも無かったとしても、同じ結果が出る類のものである。

だから大津皇子は「そんな事(占いに出る結果)は分かりきっている」と言って怒っているのである。

多分命じたのは鵜野讃良(うのさらら)皇后(後の持統天皇)だろう。

この一風変わった恋の歌から分かることは、

○ 二人の不倫(?)は周囲に知られていた。

○ 誰かがこの不倫を表面化するため、津守に占わせた。

○ 占いの結果を政治的に利用しようとした。

という事である。

これは実に危ない状況が大津皇子に迫っていることを予感させる。

草壁は病弱だった。石川郎女がその妃だったとして、不倫に走る可能性はたしかにあっただろう。

鵜野讃良は第二弾として僧行心を送り込み、人相占いをさせて大津皇子の謀反を唆した。しかし頭の良い大津皇子は下手に言質を取られるような事はなかった。

彼らは最終的に川島皇子を通報者に仕立て上げ、ついに大津皇子を処刑したのである。

こんな想像をしてしまうのは、歴史的に前例があるからである。

允恭天皇の皇子、木梨軽皇子とその妹、衣通王(そとおりのおおきみ)の関係が占われ、結果二人は心中、日本最古の心中事件として古事記に記されている。

だがこれは古事記の記述通りの表現で、実際はクーデターだった。

また有間皇子は都の留守官を務めていた曽我赤兄に謀反を唆され、思わず「今こそ兵を用う時」と叫んでしまった。その時皇子の脇息が倒れ、不吉なものを感じた皇子は慌てて屋敷へ帰るが、翌朝屋敷の周りは赤兄の兵で取り囲まれていた。

結果皇子は紀の湯に滞在中の中大兄皇子のもとへ引き立てられ、その帰り道絞首刑となった。

勝者は歴史を作り敗者は文学を遺すと言われるが、特にこの時代の万葉歌には、一見何気ない歌でも裏に重大な事柄を暗示するものが多いのである。

 

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(1)

額田王 万葉集巻1 9
伊(き)の温泉(ゆ)に幸(いでま)す時に、額田王が作る歌
莫囂円隣大相七兄爪謁気  我が背子がい立たせりけむ厳(いつ)樫が本

言わずと知れた万葉集中最大の難訓歌である。

下三句は読めるのだが上二句は千年以上誰にも読めていない。

読めない上二句はさておき、下三句で言えば「我が背子」が誰を指すのかが最大のポイントである。

額田王は一体誰を想ってこの歌を作ったのか。それによってこの歌の意味する所は大きく違ってくる。

一般的に「背子」と呼ぶのは同母の兄弟(いろせ)や自分の夫である。

だからこれは大海皇子(おおあまのみこ)だとするのが一番無理が無い。実際「この背子は大海皇子のことか、、」といった書き方をする解説書が多い。

だがこの歌の作歌状況から推測すると、どうしてもこれは有間皇子の事に思えて仕方がない。

もしこの歌が、この時額田王が随行していた斉明天皇へ献上する為の歌だったらなおさらである。

厳樫(いつかし)とは荘厳な霊力を持つと言われる樫の木で、この「背子」はその下に立ち、神に切実な願掛けをした。

額田王は「い立たせりけむ」つまり「お立ちになったでしょう」と推量の助詞を使っている。

もし自分の夫、大海皇子がかつてこの木の下に立ったことがあると額田王に話していて、旅の途中でその木を見てその話を思い出して詠ったのなら、「かつてあなたがお立ちになった」と表現するのが自然ではないだろうか。

大海皇子は後に兄天智天皇から命を狙われるような事態に見舞われるが、この当時は母斉明天皇の御世であり差し迫って神に懇願しなければならない事情は無かっただろう。

翻って若干17歳の青年、有間皇子は生きるか死ぬかの瀬戸際の旅の途中、この樫の木に差し掛かったのだ。

額田王ならずとも、きっとこの霊木に命乞いの願掛けをしただろうと誰にも想像できる。

廻文詩

橘在列の五言律詩 本朝文粋 巻1 雑詩 廻文詩

寒露暁霑葉 晩風涼動枝 残声蝉*彗彗 列影雁離離 

蘭色紅添砌 菊花黄満籬 団団月聳峰 皎皎水澄池

 * 「彗」の文字はこれに「口偏」が付きます。表示できませんでした。

ここでこの漢詩を取り上げたのは、この詩に「廻文詩」という題詞が付けられているからです。

私自身が回文に興味をもって、回文短歌などを作っている関係で、この漢詩はやはり「気になる」歌です。

いま世間ではちょっとした回文ブームなのだそうで、「美しい国は憎いし苦痛」などと国会質議のなかにまで使われています。

少し前まで「回文」というと、「何それ、怪文?」などと言われかねなかったのですが、最近はやっと「回文」という言葉も世間に認知されるようになってきました。

この回文という言葉がどこから来たのかというと、もともとは中国の漢詩のなかで使われていたものです。

私は漢詩に詳しくないのですが、詩吟をなさる方で漢詩にも造詣が深い方から、古い中国の回文詩を紹介していただきました。「題金山寺」というものです。

日本でも平安時代に入って、回文の漢詩を作り始めたようです。

「本朝文粋」(ほんちょうもんずい)という漢詩集は1058年のものです。

それ以前の漢詩集、「懐風藻」(かいふうそう)751年や「文華秀麗集」818年などを調べたのですが、回文と題された詩はありませんでした。

おそらくこの橘在列の漢詩が、記録に残されている中での日本最古の回文だと思います。

当然「回文」という言葉の初出もこの漢詩の題詞ということになります。

漢詩ですから一文字が一語を表している関係で、日本でいう回文とは異なります。

言ってみれば正逆で二詩が成立しているといった感じになります。

これなら日本語の回文より簡単に出来るなどと思ったら大きな間違いです。

韻をそろえたり、平仄をそろえたり、他にも難しい法則があって、普通に漢詩を詠むだけでも大変なことです。それを逆読みでも成立するようにするのですから、想像もつきません。

正 寒露暁にして葉を霑(ぬら)し、晩風涼しくして枝を動かす。

   声を残す蝉彗彗(けいけい)、影を列ねる雁離離(りり)。

   蘭色(らんしょく)紅にして砌(みぎり)に添はり、菊花黄にして

     籬(まかき)に満つ。

   団団として月は嶺に聳え、皎皎(けうけう)として水は池に澄む。

逆 池澄みて水皎皎(けうけう)、峰聳え月団団。

   籬(まかき)に満つ黄花の菊、砌(みぎり)に添はる紅色の蘭。

   離離(りり)として雁影列なり、彗彗(けいけい)として蝉声残る。

     枝動きて涼風晩れ、葉霑ひて晩露(ぎょうろ)寒し。