澪標

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澪標中の水門に少女留め遠にと波の悲し靴を見

みをつくしなかのみなとにおとめとめとおにとなみのかなしくつをみ

 

澪は水尾のことで水脈。澪標は「水尾つ串」で水脈に立る標識です。

遠江の国、今で言う静岡県、その引佐郡細江町の入り江に、船の安全運航のため設けられたのが日本最古の澪標と言われます。

「みをつくし」という音が「身を尽くし」と同一なので、古くから恋歌によく詠まれます。

写真は澪標。大阪市の市章にもなっている。

後(ゆり)にとふ

草の中思いつつ見しは常の世の言葉しみつつ妹が名の咲く

くさのなかもいつつみしはとこのよのことばしみつついもがなのさく  2010/1/14

 

元歌

万葉集 2467 作者不詳

路の辺の草深百合の後(ゆり)にとふ妹が命をわれ知るらめや

 

「今は一緒になれませんが、ゆり(後)にはきっと、」と少女が言った。そんな少女もはかなく死んでしまった。

作者は草むらに咲く一輪の百合(ゆり)を見て「ゆりにはきっと」という少女の約束の言葉を思い出している。

可憐な百合の花で少女の姿を想い、「ゆり」という言葉の音で少女の約束の言葉が甦ったのである。

「知るらめや」は「領(し)るやめや」の意味を持ち、いまは人智の及ばない存在になってしまったことを嘆いている。

万葉集中の秀作の一つで、私の好きな歌である。

飯盛る椎葉 有間皇子

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這い知るも曳いては死地を縄の身の罠落ちし果て飯盛る椎葉

はいしるもひいてはしちをなわのみのわなをちしはていひもるしいば  2009/12/10

 

元歌

万葉集 142 有間皇子

家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

万葉集挽歌の部の巻頭を飾る有間皇子の挽歌二首のうちの一首。

写真は有間皇子の墓。都に戻ることなく藤白坂で絞首刑となった。

標結はな 額田王

標結はな魂馳せ里路御世の上の黄泉路閉ざせばまだ汝は夢路

しめゆはなたまはせさとじみよのへのよみじとざせばまだなはゆめじ  2009/9/14

 

元歌

万葉集 151 額田王

かからむの懐(おもひ)知りせば大御船泊(は)てし泊まりに標結はましを

 

天智天皇御不予の際の妃額田王の挽歌である。

標(しめ)は悪霊などが入らないようにするもの。呪術的な言霊として使っている。

私の歌の標は「茜さす紫野行き標野行き・・」の標と同じ意味で使った。

 

滋賀を血濡らし 高市皇子

知らぬ地を 畏みて汝は 親の敵 気高き戦 宮の目の
野路身添ひしは 十市なる 夜半に哀れは しみ通る
死にはさせじと 生臭く 眼とじせさば にじる音
見し吾は兄 はやるな血 音端ひそみ 東雲の
闇裂く息か 猛き手の 矢を放て皇子 滋賀を血濡らし

 

しらぬちを かしこみてなは おやのてき けだかきいくさ

みやのめの のじみそひしは とおちなる やはにあはれは

しみとおる しにはさせじと なまぐさく まなとじせさば

にじるおと みしわれはあに はやるなち おとはしひそみ

しののめの やみさくいきか たけきての やをはなてみこ

しがをちぬらし  2009/12/13

 

元歌

万葉集 158 高市皇子

山振の立ち儀(よそ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく

 

壬申の乱を題材にした長歌。
十市皇女(とおちのひめみこ)は大海皇子と額田王の間の娘で、滋賀朝の皇太子大友皇子の后。
十市皇女を詠った歌は万葉集に四首載っているが、そのうち三首までが高市皇子の悲しみの挽歌である。
十市皇女にとって高市皇子は腹違いの兄弟であり、夫の仇でもあり、恋仲でもあった。
続日本紀 の記事をみると彼女の死は自殺だった可能性がある。

舞う悲しみも 大伯皇女

戻る身は越せ黄葉なか馬の背の舞う悲しみも背子は見るとも

もどるみはこせもみじなかうまのせのまうかなしみもせこはみるとも

伊勢の場を涙流して離散せん去りてし彼方みな叔母のせい

いせのばをなみだながしてりさんせんさりてしかなたみなをばのせい

 

元歌

万葉集 106 大伯皇女

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が一人越ゆらむ

大伯皇女が弟大津皇子を詠った歌は万葉集に六首ある。
大津皇子処刑はあまりにも性急かつ強引なもので、持統天皇側の焦りのようなものが感じられる。
天智天皇が曽我山田石川麿にあらぬ嫌疑をかけ、自害に追い込んだ事件に酷似しているのは、やはりそれが持統天皇のトラウマとなっていたのかもしれない。

『懐風藻』の冒頭に大津皇子の漢詩二篇(内一篇は辞世の歌)、川島皇子の漢詩一篇が載っている。
続けて編者の事件に関する感想が記されているが、親友を裏切る証言をした川島皇子を非難している。
しかし川島皇子の弱い立場を思えば決して責めることはできない。川島皇子も生涯苦しんだことだろう。

 

 

「たけくらべ」 美登利に

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緋の端切れ可愛い娘濡れし木戸端は時知れぬ恋別れ際の日

ひのはぎれかわいこぬれしきどばたはときしれぬこいわかれぎはのひ  2009/9/7

 

芸者置屋に預けられた少女美登利は界隈の子供グループのボス的存在。一方寺の少年信如は敵対するグループの相談役的立場である。

ある雨の日、信如は下駄の鼻緒が切れてしまって困っていた。

それを見ていた美登利は木戸の陰から気付かれないように緋色の端切れを投げてやる。信如はそれに気づかず走って行ってしまう。

道端には雨に濡れた緋色の端切れが残ったまま。

信如は修行のためその街を離れていく。

少女から乙女へと変わりつつある微妙な心境の変化を捉えた象徴的場面である。

写真は樋口一葉。

啄木と小奴に、二首

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小奴
白雪の水際に居よる案山子見しかかる宵には君の消ゆらし

しらゆきのみぎはにいよるかかしみしかかるよいにはきみのきゆらし

啄木
かじかむ手駅路地来れど冷える夜酔ひどれ釧路消えて昔が

かじかむてえきろじくれどひえるよるゑひどれくしろきえてむかしが  2009/1/19

 

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野口雨情が『石川啄木と小奴』という文章のなかで、北海道時代の石川啄木と芸者小奴のエピソードを紹介している。
まだ無名の一新聞記者に過ぎない赤貧の啄木を、何くれとなくめんどう見たのが芸者小奴だった。
啄木はそんな恩人小奴を捨て、何も告げずに東京へ逃げてしまった。
その後生涯啄木は小奴に連絡をとることすらしなかった。
野口雨情は小奴を哀れに思い啄木に意見したことがあった。
その時啄木は何も言えず実に悲しそうな顔をしていたので、それ以上は何も言えなかったと書いている。

一握の砂 石川啄木

死にたくはないかと言へばこれ見よと
咽喉(のんど)の疵(きず)を
見せし女かな

 

これは啄木が小奴のことを詠んだ歌だが、私が大学生の頃、当時啄木研究の第一人者と言われた岩城先生から「これは本当はおできの痕で、自傷の傷ではない」と聞かされた。岩城先生は小奴から直接聞いたそうである。

もう50年以上前のことだが、好きな歌だっただけにショックで未だに覚えている。