瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(4) 最終回

冒頭に戻って、兄長皇子の警告とは何だったのか。

今となっては分かりようも無いが、あの会議で恐れず発言する様子を見れば、弓削皇子は正義感の強い、しかも熱血漢だったと思われる。

その上持統天皇から反体制と目されていれば、どんな危険が身に及んでも仕方がない。

兄が弟の身を案ずるような事態も多々あったのではないだろうか。

弓削皇子 万葉集巻3 242
滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに

滝の上の三船山に掛かっている雲がいつまでもそこに留まることが無いように、私の命もいつまであるものではない

 

この歌そのままに、弓削皇子はあの会議からわずか三年後に亡くなっている。

皇子が早世したため、病弱だったという説が多いが、その根拠となっているのはこの歌のみである。

死因については史書には無い。

 

皇子は額田王への歌で、「昔を懐かしむ鳥でしょうか。鳴きながらこの池の上を飛んでいきます」と言っている。

つまりその鳥に自分自身を重ねているのだ。

この歌を読んだ額田王は即座に理解した。そして彼女は皇子に限りない危うさを感じ取った。

だから「その鳥はほととぎすです」と返したのだ。

ほととぎすは舌が赤いことから「鳴いて血を吐くほととぎす」などと言われる。

また別名を「たまむかえどり」とも言い、黄泉に魂を運ぶ鳥とも言われている。

「あなたはもう死を覚悟しているのですね」と言外に伝え、「私も同じ気持ちですよ」と慰めているのである。

奇しくもこの歌が額田王が万葉集に遺した最期の歌となった。

 

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(3)

長皇子の不可解な相聞歌、弓削皇子の謎かけのような相聞歌、それらを理解するための重要なヒントが「懐風藻」という漢詩集にある。

「懐風藻」は平安時代の日本最古の漢詩集である。

巻頭に大津皇子の辞世の詩や、大津皇子の謀反を通報したという親友川島皇子の詩が載り、また大津皇子事件について編者自身の感想も載っている。

この編者は解説好きと見えて、高市皇子が薨去の際、次期日嗣の皇子をどうするかという会議の模様を詳細に掲載している。

「皇太后(鵜野讃良のちの持統天皇)王侯卿氏を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす」「時に群臣各(おのがじし)私好を挟みて衆議紛うんなり」

持統天皇は皇太子高市皇子が亡くなって、次の日嗣を誰にするのか決めるために王侯卿氏を集め、議論させたがそれぞれの思惑もあって中々決まらなかった。

持統天皇の悲願は孫の軽皇子(草壁皇子の子、後の文武天皇)に譲位することであり、彼女の中でそれ以外の結論はあり得なかった。こんな会議を開いたのも、それを公然のものと決定付けるための手続きに過ぎない。

なので、ある意味台本通りに葛野王(かどののおおきみ)が進み出て、

「神代の時代から我が国はその子孫が相承けて天位を継いでいる。もし兄弟が継ぐようなことがあれば紛争のもととなる」

と発言し粗方軽皇子ということに決まりかけた。

その時、なおも異論を唱えたのが弓削皇子だった。

弓削の皇子の発言内容は記載されていないので分からないが、当然「次の日嗣には兄長皇子がなるべき」と主張したと思われる。

葛野王は一喝して弓削皇子を黙らせた。

持統は大いに満足して葛野王に正四位を与え枢機卿に取り立てた。

以上が「懐風藻」の概略である。

弓削皇子はこの一件で持統天皇から睨まれる立場になってしまった。

このような経緯を見れば、弓削皇子が額田王に宛てた歌の意味が理解できると思う。

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(2)

長皇子の弟弓削皇子もまたこんな相聞歌を残している。

吉野の地から明日香に居る額田王に贈った歌だ。

 

弓削皇子 万葉集巻2 111
古(いにしへ)に恋ふる鳥かもゆずる葉の御井の上より鳴き渡りゆく

昔を恋しく想う鳥なのでしょうか。このゆずる葉の池の上を鳴いて行きます。

 

それに和(こた)えた額田王の歌。

額田王 万葉集巻2 112
古に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我がもへるごと

昔を恋しく思うその鳥はほととぎすです。私が恋しく思っているように。

 

このやり取りは一見普通だが、なんとなく違和感がある。

明日香に隠棲している老年の額田王と若い弓削皇子とでは、付き合いが有ったはずもなく、会ったことがあるかどうかもあやしい。

そんな若者から突然こんな謎めいた歌が贈られてきて、額田王は驚いたはずである。

多くの解説書では「単なる挨拶程度のもの」とか、酷いものになると「若い弓削皇子が年老いた額田王をからかったもの」などというのもある。

そんなはずはないのである。

この歌には皇子の切実な思いが秘められていて、額田王は一目で皇子の思いを見抜いた。だから「その鳥はほととぎすです。私も同じ思いです」と答えたのだ。

皇子の歌の真意を解くカギは「吉野から送った」という事と、歌の中の「ゆずる葉」という言葉である。

吉野は天武天皇にとって特別な地であり、あの「吉野の盟会」が行われた地である。

壬申の乱の後、天武天皇は今後このような事が起きないようにと、吉野の地で鵜野讃良皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、志貴皇子、川島皇子の8名で固く誓い合った。

この内、志貴皇子、川島皇子の二名は天智天皇の皇子である。

この時に皇太子は草壁皇子という事になった。

天武天皇亡き後、その誓いを皇后鵜野讃良が強引に破ってしまう。

一番有力な大津皇子を陥れ刑死させ、草壁皇子が薨去すると多くの皇承権を持つ皇子たちを抑え、自らが即位してしまったのである。

おそらく鵜野讃良はこの時高市皇子と密約を交わしたのではないかと思う。

高市皇子は最年長であり、しかも壬申の乱のときの最大の功労者だが、母親の地位が低かったため皇承順位も低かった。

鵜野讃良はそんな高市皇子を皇太子にする条件で、自らの即位に協力させたのではないだろうか。

高市皇子は実質皇太子だったのだろうが、史書に明記はされていない。

鵜野讃良の悲願は自分の孫(文武天皇)に皇位を譲る事だった。その為に何としても自分が即位し、孫(草壁の子)にバトンタッチする必要があった。

 

それらを暗示しているのが「ゆずる葉」という言葉である。

ゆずる葉は古い葉は自然に下にさがり、若葉にその場所を譲ることからそう呼ばれる。

吉野の地からの歌にゆずる葉という言葉が含まれていれば、これはもう吉野の盟会の事を言っているとしか思えない。

天武天皇という葉が落ちた後、若葉をもぎ取ってまで即位した持統天皇に対する批判が込められている。

弓削皇子は誰にも打ち明けられない思いを、かつて天武天皇を深く愛した額田王ならわかってくれると思いこの歌を贈ったのである。

 

源氏物語12帖 「須磨」より

光源氏
落差増す草も枯れなば闇の地の宮離れかも咲く須磨桜

らくさますくさもかれなばやみのちのみやばなれかもさくすまさくら

宿知らず水面ちる雪けさの海の避け来ゆる地も波辛しとや

やどしらづみなもちるゆきけさのみのさけきゆるちもなみつらしとや

わび住まい吉備に貧しきけさの海の避け来し須磨に弾き居ます琵琶

わびすまいきびにまずしきけさのみのさけきしすまにひきいますびわ

 

源氏は朧月夜と右大臣の屋敷で一夜を過ごすが、明け方嵐になってしまい、帰るに帰れないでいるところを右大臣に見つかってしまう。

朧月夜は右大臣の六の君で、内侍として入内が決まっていた。

右大臣はその事を弘徽殿の女御に話してしまう。

弘徽殿の女御は激怒、源氏は罪を逃れるため自ら役職を辞し須磨に退居する。

須磨は海風も強く、粗末な屋敷を吹き抜ける、都育ちの源氏には耐えられない過酷な地だった。

「須磨桜」は与謝野晶子の造語。

源氏物語もこのあたりまで読み進めると人間関係が分からなくなってくる。

この辺で挫折する人が多く、それを「須磨帰り」と言う。

何しろ登場人物は全編通じると400人以上、しかも本名は一切無く役職名などで出てくるので、物語が進むにつれて違う呼び方になる。同一人物の呼称が3つも4つもあるなんていうのはざらである。

 

 

源氏物語40帖 「御法」(みのり)より

minor
光源氏
果てしなき先も余儀なく悲しみし永くなき世も后なしでは

はてしなきさきもよぎなくかなしみしながくなきよもきさきなしでは

 

紫の上の容態が悪化し源氏と明石中宮が見舞う。

三人は庭に植えられた萩の露で唱和するが、源氏と明石中宮は涙を抑えきれない。これが今生の別れとなってしまう。

加持祈祷の甲斐も無く夜の内に紫の上は逝去する。

明石中宮は源氏と明石の間の娘で紫の上の養女。今上帝との間に産んだ皇子が匂宮。

写真は国宝源氏物語絵巻御法の帖(部分)。 中央が明石中宮。後姿は極端に頭部が小さく描かれる。

源氏物語 「雲隠」より

紫と早よ黄泉にてや結ばれば棲むや天に見よ世は時去らむ

むらさきとはよよみにてやむすばればすむやてにみよよはときさらむ

 

「雲隠」の帖は41帖「幻」と42帖「匂宮」の間にあって、帖数も無ければ本文も無い。「雲隠」という表題があるだけである。

雲隠れという言葉は主に高貴な人が亡くなった場合に使う。この表題だけで、主人公光源氏が亡くなったことを暗示している。

42帖以降は光源氏亡き後の物語になる。

 

瀬は渡らずて 長皇子の相聞歌(1)

長皇子 万葉集巻2 130
丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こいた)し我が背いで通い来ね

「恋しい君よ、丹生の川の瀬は渡らずに早く通ってきておくれ」

 

万葉集巻2 相聞の部 に男女の恋歌が並ぶなか、たった一首、男性が男性にあてた相聞があるとやはり異様な感じがするものである。

しかもこの歌は長皇子が実の弟、弓削皇子にあてた歌なのでなおさら奇異である。

もともと相聞歌はお互いの近況を知らせたりするものなので、必ずしも恋歌とは限らないし、男性同士、女性同士の相聞があっても不思議ではない。

しかしこの歌は誰が読んでも恋歌にしか思えない。

まさか本当にこの二人が恋仲だったなどとは考えにくいので、ならばこの歌の真意はどこにあるのか、実に気になるところである。

いくつかの万葉集の解説を見ても、岩波の「古典文学大系」では「瀬は渡らずて」が何を意味するのか不明とある。

また「全注釈」では「言葉の意味するところが多すぎて全体にごたごたしすぎ」と散々な言われようである。

総じてこの歌の評価はあまり高いとは言えない。

男女の相聞なら四六時中でも手紙のやり取りをしたいと思うのだろうが、兄が弟に贈るとしたら何らかの必要性が有るときではないだろうか。

この歌のキーワードは「瀬は渡らずて」と「ゆくゆくと」の二つである。

 

三途の川には三つの瀬があり、生前の行いによって違う瀬を渡らされるという。

悪行を重ねた者はより深い瀬を渡らなければならない。

「瀬を渡る」という言葉からは何らかの困難や危険を連想させられる。言葉の持つイメージである。

兄は弟に「瀬を渡るな」と言っており、危険なことをしないようにと警告しているのである。

「ゆくゆくと」の意味はあまりよく分からないそうだが、何かの本に「行く行くと」の意味ではないかとあった。

私はその語感から、「ゆっくりと」のイメージを持っていたので、「行く行くと」だとむしろ反対の意味になる。

だから兄の警告は「危険なことは避けて、早く私のところに来なさい」という緊急性を持ったものになる。

弟弓削皇子の迷い込んだ危険な瀬とは、一体何だったのだろうか。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(5)最終回

伊藤博氏はその著書「万葉集 釈注」で、「もしかしたら、この上二句は額田王が斉明天皇にしか分からない表記をしたのかもしれない」という趣旨のことを言っている。

私も同感である。そうでなければ千年以上もの間誰にも読めないような書き方を額田王がするはずがない。

ここが読まれたら多分この歌が有間皇子への追悼歌だと分かってしまうのではないだろうか。

それでは何故下三句は読めるのだろうか。

私はこの下三句には、額田王が人目を欺くため、ちょっとした言葉の罠を仕掛けたのだと思う。

それが「我が背子」という言葉である。

初めに書いたように、わが背子と呼ぶのは同母の兄弟か夫に対してである。

ここに我が背子とあるだけで、誰もが大海皇子と思ってしまう。

決して有間皇子とは思わないのである。

これが全部暗号のような読めない表記では怪しまれる。

だからあえて下三句は読めるようにしてあるのだ。

これは私の勝手な想像だが、もしこの推理が当たっていたとしたら、、

中大兄皇子の目を避けるためのトラップに、以後千年の全ての人たちが引っかかっていることになる。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(4)

有間皇子を襲ったこの一連の出来事が中大兄皇子の陰謀であることは明白であり、誰よりもそれをよく知っていたのは有間皇子本人である。

それ故皇子はもう二度と生きて明日香に戻れないことは自覚していた。

それでも旅の途中皇子は一縷の望みにすがり、松の枝を結び自分の魂をそこに込めた。

もし万に一つの幸運が訪れてまた都に戻れるなら、もう一度この松を見ることが出来るだろうと歌に残した。

そんな旅の先にあったのがあの樫の霊木だったのだ。

皇子はその木の下に立ち、悲痛な思いで神に祈ったことだろう。

 

額田王は斉明天皇の御傍に仕えて紀の湯に居た。

斉明天皇の驚きと悲しみは手に取るように感じ取っていたはずである。

秋の野のみ草刈りふき宿れりし宇治のみやこの仮庵し思ほゆ

この歌は万葉集に残る額田王の最も若い時代のもので(二十歳前)、斉明天皇がかつて夫舒明天皇と訪れた宇治の地に行幸した時の作である。

この歌の斬新さは歌の最後が「思ほゆ」で終わっていることである。雑歌では訪れた土地を賛美するのがそれまでの慣例だった。その土地の神を讃えそして天皇を賛美するというのがパターンである。

まだ十代の女性の豊かな感受性は斉明天皇の心の中まで感じ取っていた。斉明天皇は夫舒明天皇との思い出の地を懐かしんでいたのである。

だから「あの仮庵が思われる」と天皇の心のままを歌にした。

斉明はこの歌に感銘を受け、以後額田王は天皇に代わって歌を作る事になる。

 

結果として有間皇子は処刑されているので、その時の斉明天皇には最早我が子中大兄皇子を抑え込む力は無かったのだろう。

額田王は斉明天皇の気持ちを汲んで何とか慰める献歌をしたいと思ったはずである。しかし傍には中大兄皇子の目が光っている。

幾人もの人を死に追いやった中大兄皇子のやり方を見ていれば、恐ろしくて皇子への哀悼の挽歌など作れなかったはずである。

その行幸の帰り道、そこにはあの樫の霊木があった。

額田王の目は、そこに佇んで一心不乱に祈る有間皇子の姿を、その幻影を見たはずである。

そして額田王は一世一代の、まさに命を懸けた挽歌を作った。

この万葉集第9番歌は間違いなく額田王の代表作だろうと思う。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(3)

有間皇子は聡明な若者だった。死の直前に詠んだ挽歌二首を見ても並の才能でないことは明らかである。

そんな有間皇子がある日突然奇行に走りだす。皇子が気が触れたという噂はあっと言う間に広がった。

皇子は我が身を守るため狂人を装ったのである。

そうしないと命を狙われるという危機感が皇子にはあった。そんな皇子の境遇を思うと、実に切なく悲しい気持ちになる。

孝徳天皇崩御の後、皇極天皇が重祚し、斉明天皇となっていた。

斉明は甥の有間皇子を可愛がっていた。だから気が触れたことを大変心配し、紀の湯に湯治に行ってはどうかと勧める。

皇子は紀の湯から戻ったあと、斉明に「大変良い所でした。病気もすっかり良くなりました」と報告した。

斉明は大変喜んで、自らも紀の湯へ行幸することになった。

この行幸に同行したのは、中大兄皇子、中命皇(なかつすめらみこと 間人皇女?)、額田王、など宮廷の主だった人の大半である。(大海皇子は同行していないと思う)

これで明日香の都はほぼ空となり、留守を預かったのが曽我赤兄である。

有間皇子は赤兄に話があるからと誘われ、赤兄の屋敷に向かう。

そこで赤兄は皇子に斉明天皇の失政を説き、今こそ立ち上がる時ですと謀反を唆す。

皇子は思わず「今こそ兵を用う時」と口を滑らせてしまう。

その瞬間皇子の脇息が壊れ、はっと我に戻った皇子は慌てて屋敷に戻り寝てしまう。

翌朝目を覚ました皇子の屋敷の周囲はすでに赤兄の兵に取り囲まれていた。

こうして皇子は捕らえられ、謀反の罪で紀の湯に居る中大兄皇子のもとへ引き立てられることになった。

 

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(2)

有間皇子は孝徳天皇の皇子である。

乙巳の変の後、皇極天皇は弟孝徳天皇に譲位する。

孝徳天皇は難波に遷都するが、左右大臣を失った後、中大兄皇子は皇后間人(はしひと)を初め宮廷人すべてを引き連れ明日香に戻ってしまう。

孝徳天皇は孤独の内に憤死してしまう。

左大臣倉橋麻呂は病死だったのだが、右大臣曽我石川麻呂はあらぬ謀反の容疑を掛けられ、山田寺で一族もろとも自害に追い込まれる。

曽我山田石川麻呂は乙巳の変の際、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を撃つためひそかに仲間に引き入れた人物である。

明日香板葺の宮の大極殿で三韓の義が行われた際、石川麻呂が奏上文を読み上げるのを合図に入鹿に切りかかったのである。

その後中大兄皇子は石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)を妻に迎える。

その妃との間に生まれたのが、太田皇女、鵜野讃良皇女の姉妹である。

太田皇女は大伯皇女、大津皇子の母親であるが若くして亡くなる。

中大兄皇子はそれほど関係の深い石川麻呂を意図的に自害にまで追い込んだ。

遠智娘はあまりの悲しみに自害する。

鵜野讃良にとってこの出来事は大きなトラウマとなったはずである。のちに彼女は甥の大津皇子に全く同じことをすることになる。

忠誠心の強い石川麻呂を亡き者にし、孝徳天皇を死に追い込んだ今、中大兄皇子にとって残る邪魔者は有間皇子ただ一人である。

 

あしひきの山のしづくに 大津皇子の相聞歌

大津皇子 万葉集巻2 107
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れし山のしづくに
石川郎女 万葉集巻2 108
我(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを

 

歌自体は特にどうということの無い相聞歌だが、問題なのは大津皇子が山で石川郎女(いらつめ)を待っていることである。

この時代は男が女の許へ通うのが通常であって、こんな風に女が出向いてくるというのは不倫などの訳ありの場合がほとんどである。

石川郎女については伝不詳で、どういった女性かわかっていない。しかしこのやり取りから大津皇子と石川郎女の関係は通常ではないことが想像できる。

つまり石川郎女はだれかの妃で、これは不倫関係ではないかということである。

とするとやはり因縁の草壁皇子(皇太子)の妃だった可能性が高い。

草壁が石川郎女にあてた相聞も残っているからである。

次の歌も同じ石川郎女に関する大津皇子の歌だが、これは占いに関係してくる。

大船の津守が占に告(の)らむとはまさしに知りて我(わ)が二人寝し

「津守めの占いに出るなんて承知の上で俺たちは二人で寝たんだ」(「大船の」は「津」にかかる枕詞)

津守というのは陰陽道の名手と言われた津守連通(つもりのむらじとおる)の事である。

大津皇子は自分と石川郎女の関係を占われた事を怒っている。そして「そんな事は知ったうえで寝たんだ」と開き直っている。

大津皇子は誰かが津守に命じて自分たちの関係を占わせた事を怒ったのである。

これは明らかに政治的意図のもとに行われた占いであり、この二人の関係が例え何にも無かったとしても、同じ結果が出る類のものである。

だから大津皇子は「そんな事(占いに出る結果)は分かりきっている」と言って怒っているのである。

多分命じたのは鵜野讃良(うのさらら)皇后(後の持統天皇)だろう。

この一風変わった恋の歌から分かることは、

○ 二人の不倫(?)は周囲に知られていた。

○ 誰かがこの不倫を表面化するため、津守に占わせた。

○ 占いの結果を政治的に利用しようとした。

という事である。

これは実に危ない状況が大津皇子に迫っていることを予感させる。

草壁は病弱だった。石川郎女がその妃だったとして、不倫に走る可能性はたしかにあっただろう。

鵜野讃良は第二弾として僧行心を送り込み、人相占いをさせて大津皇子の謀反を唆した。しかし頭の良い大津皇子は下手に言質を取られるような事はなかった。

彼らは最終的に川島皇子を通報者に仕立て上げ、ついに大津皇子を処刑したのである。

こんな想像をしてしまうのは、歴史的に前例があるからである。

允恭天皇の皇子、木梨軽皇子とその妹、衣通王(そとおりのおおきみ)の関係が占われ、結果二人は心中、日本最古の心中事件として古事記に記されている。

だがこれは古事記の記述通りの表現で、実際はクーデターだった。

また有間皇子は都の留守官を務めていた曽我赤兄に謀反を唆され、思わず「今こそ兵を用う時」と叫んでしまった。その時皇子の脇息が倒れ、不吉なものを感じた皇子は慌てて屋敷へ帰るが、翌朝屋敷の周りは赤兄の兵で取り囲まれていた。

結果皇子は紀の湯に滞在中の中大兄皇子のもとへ引き立てられ、その帰り道絞首刑となった。

勝者は歴史を作り敗者は文学を遺すと言われるが、特にこの時代の万葉歌には、一見何気ない歌でも裏に重大な事柄を暗示するものが多いのである。

 

 

源氏物語35帖 「若菜下」より

kasiwagi
柏木
爪は猫理より高鳴る胸のみの眠る仲たり寄り来ね破滅

つめはねこりよりたかなるむねのみのねむるなかたりよりこねはめつ

 

朱雀帝は退位した後出家を考えるが、娘の女三の宮のことが気がかりだった。それで源氏に妻として迎えてほしいと頼んだ。

宮を妻とするとなれば、正妻として迎えなければならない。

源氏は紫の上の気持ちを考え即答は出来なかったが、結局は朱雀院の頼みを受け入てしまう。

このことが結果、晩年の源氏と紫の上に大きな災いとなってしまう。

紫の上はこの後病がちとなり、源氏は紫の上のもとに通う日々が続いた。

そんな源氏の留守中、女三の宮と柏木が不倫の仲になってしまう。

ある日源氏の屋敷の庭に数人の若い貴族が来ていた時、女三の宮は簾越しにその姿を見ようとしていた。

その時女三の宮の飼い猫のひもが偶然簾に絡まって巻き上げてしまう。庭に居た柏木は女三の宮を見てしまい、激しい恋情を抱く。

柏木は伝手をたよって女三の宮の飼い猫をもらい受ける。

その猫を彼女の身代わりとしていつも一緒に寝ていた。

女三の宮は時の最高権力者である源氏の正妻、この恋が如何に危険な恋なのか柏木は百も承知なのだが、恋慕の情が勝ってしまう。

身の破滅の予感におののきながらも柏木はこの恋を諦めきれなかった。

源氏物語54帖 「夢の浮橋」より

然れどもやはり嘆かば行くも来も悔ゆ葉陰なり早戻れかし

しかれどもやはりなげかばゆくもくもくゆはかげなりはやもどれかし

薫と浮舟に
別るさえ固き懐かし対の身のいつしか繋ぎ違えざる川

わかるさえかたきなつかしついのみのいつしかつなぎたがえざるかわ

 

源氏物語は全54帖、「夢の浮橋」をもって幕を閉じる。

しかし実際に読んでみて何となく物足りなさを感じるのは私だけでは無いと思う。

本当はまだ続編が有ったのではと思えてしまうほど素っ気ない結末である。

私が源氏物語を読む切っ掛けになったのは、回文での友人の木村先生と徳永未来さんに勧められてのことだった。

木村先生は専門はフランス語の教授だが、源氏物語への造詣が深く、その関連本、演劇、漫画、映画、絵画、工芸その他あらゆる分野での源氏関係のもの全てに論評をされている。

専門家にも負けない驚くべき読書量で、知識の量も計り知れない。

その木村先生はこの源氏物語の終わり方について、「僕は違和感がないし好きだ」と言っていた。

物語では薫は浮舟の弟を使者にして、浮舟に戻るように説得するのだが、浮舟は応じない。

薫は浮舟と再会することなく物語は終わってしまう。

最期の「薫と浮舟に」と題した回文歌は、私から二人に捧げた歌で、願望も入っている。

 

 

 

 

源氏物語53帖 「手習」より

罪科を担うも重し参る夜いましも思う何を可と見つ

つみとがをになうもおもしまいるよるいましもおもうなにをかとみつ

浮舟
生かさるる悲し絆に御世捨てず黄泉に懐きし流るる境界

いかさるるかなしきづなにみよすてずよみになつきしながるるさかい

 

宇治川に身を投げた浮舟。誰もがもう死んでしまったと悲しみの淵に居た。

しかし浮舟は奇跡的に一命をとりとめ、横川の僧都に助けられ、僧都の妹君のもとに保護されていた。

浮舟は死にきれなかった我が身を悔やみ、是非出家させてほしいと僧都に頼み込むのだが、妹君が「まだ若く美しい身で俗世を捨てることはありません」と止める。

僧都にも妹君にも浮舟は一切身の上話をせず、身元を明かさなかった。

ある日妹君が留守の間に浮舟は僧都に頼み込んで、ついに出家してしまう。

後に浮舟が薫大将の許嫁だと知った僧都は出家させたことを悔やむが後の祭りである。