怕ろしき物の歌

誰が遣りぬ須磨の海かくは死有時と領く神の座す塗り屋形

たがやりぬすまのみかくはしうどきとうしはくかみのますぬりやかた 2007/12/13

 

元歌

万葉集16 3888 怕ろしき物の歌

沖つ国うしはく君が塗り屋形丹塗りの屋形神が門(と)渡る

 

海のかなたに死者の住む冥界があり、沖つ国と呼ばれていた。

その国を支配する(うしはく)神は丹塗りの屋形船に乗っている。その神の屋形船を見た者は遭難して死んでしまうと船乗り達から恐れられていた。

 

この万葉歌を読んだとき、すぐに思ったのが宮崎アニメ、「千と千尋の神隠し」だった。

映画の冒頭で異形の神々が派手な朱色の屋形船で登場する。

怕ろしくもあり滑稽でもある幻想的なこのシーンは、この歌から発想したのかもしれない。

モナリザ

 monariza
モナリザは観き人の目を見つめる目罪を眼の問ひ君は去りなも

もなりざはみきひとのめをみつめるめつみをめのとひきみはさりなも 2007/10/31

 

モナリザで回文短歌を作ろうと思ったとき、「モナリザ」を初頭に使うとどうしても最後が「去りなも」になってしまう。

私としては「なも」は推量の助詞「なむ」の古語だからと納得して使ったのだが、案の定公表時に「去りなも」はおかしいと言われてしまった。

実は「なも」という助詞はかなりレアで、万葉集の中で使われた歌は一例しかない。

しかしその一例と言うのは額田王の有名な三輪山惜別歌の反歌である。

額田王 万葉集1 18
三輪山を然(しか)も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや

 

しかしそれより後の続日本紀では宣命の中で100例ほど使われているそうである。

「なむ」より古いはずの「なも」が万葉集ではほとんど使われていないのに、より時代の下った続日本紀の宣命に多く使われているということは、天皇などより高貴な人が使った言葉ではないかと思う。

そう考えると、逆にそれを堂々と使った額田王はすごいと思う。

サモトラケのニケ

samotorake
有に見たき今は無き顔みな思うも波を掻き汝は舞来た身ニケ

げにみたきいまはなきかをみなもうもなみをかきなはまいきたみにけ 2007/10/31

 

サモトラケ島で発掘された勝利の女神ニケの像。

紀元前二世紀頃のもので、118の断片からなるが頭部は無い。

映画「タイタニック」でヒロインが船首で両手を広げる有名なシーンはこのニケのポーズ。

またナイキの社名はNIKEの英語読みで、マークはニケの翼をデザインしたもの。

平成二十年 靖国神社への奉納歌

遠ざかる絆かく切れ親と子と矢折れ聞くかな過ぎる風音

とおざかるきずなかくきれおやとことやおれきくかなすぎるかざおと

 

平成二十年、当時靖国神社の宮司をされていた南部利昭氏の勧めで献歌したもの。

選者の方にも多分これが回文とは気付かれなかったようで、その年の奉納歌集に収録された。

永い靖国神社の歴史の中で、おそらく回文短歌の奉納歌はこれ一首のみと思う。

日本武尊の葬儀

kusanagi
白鳥の舞いて能褒野の終の地の厳野の炎の手いま呪詞らし

しらとりのまいてのぼののついのちのいつののほのていまのりとらし

 

古事記から日本武尊(古事記での表記は倭建命)の死を題材にした。

日本武尊は戦いの最期、荒ぶる神の変身した白い大猪に触れ、能煩野(のぼの)の地に倒れた。

尊の魂は一羽の白鳥となって空に飛び去っていく。

この戦いの前、尊は美夜受比売(ミヤズヒメ)の枕元に神刀天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)(草那芸剣)を置いたまま出かけてしまった。

それまで尊が勝利してきたのには伊勢の神の加護があったのだが、その大切な神剣を手放した為の死と言える。

私の住む静岡市に草薙という地名が有り、そこに日本武尊を祀る草薙神社(写真)が有る。

県道沿いに大きな鳥居が有り、そこから山道を登った所にひっそりと佇む鄙びた小さな神社である。

景行天皇が日本武尊の足跡を辿った際、この神社に草那芸剣を奉納した。しかし後に天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたという。

追記 2017/6/3

先日古代エジプト展を観た。

興味深かったのは古代エジプトでは人間は「肉体」「バー(魂)」「カー(精神)」「名前」の4つの要素から成っていると考えられていたそうで、死ぬと「バー」は鳥(人頭の鳥)になって飛び立つのだそうである。

日本武尊の場合と酷似していて、古代人の死生観はほぼ同様な物だと思った。

また名前が人間の構成要素とされている点も、日本の場合と類似している。

「原爆の少年」に

 gennbaku-no
閃光が地まで巻き込む背中の児のなぜ惨きまで間違う今世

せんこうがちまでまきこむせなのこのなぜむごきまでまちがうこんせ

原爆投下直後にアメリカ人カメラマンが撮った「原爆の少年」という写真である。

そのカメラマンの証言によれば、この少年は死んだ幼い兄弟を背負い、火葬の順番を暗くなるまでずっとこの姿勢を崩さず待っていたそうである。

この写真がアメリカで展示されると多くの人が写真の前で涙を流したという。

2007/7/6