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後(ゆり)にとふ

草の中思いつつ見しは常の世の言葉しみつつ妹が名の咲く

くさのなかもいつつみしはとこのよのことばしみつついもがなのさく  2010/1/14

 

元歌

万葉集 2467 作者不詳

路の辺の草深百合の後(ゆり)にとふ妹が命をわれ知るらめや

 

「今は一緒になれませんが、ゆり(後)にはきっと、」と少女が言った。そんな少女もはかなく死んでしまった。

作者は草むらに咲く一輪の百合(ゆり)を見て「ゆりにはきっと」という少女の約束の言葉を思い出している。

可憐な百合の花で少女の姿を想い、「ゆり」という言葉の音で少女の約束の言葉が甦ったのである。

「知るらめや」は「領(し)るやめや」の意味を持ち、いまは人智の及ばない存在になってしまったことを嘆いている。

万葉集中の秀作の一つで、私の好きな歌である。

標結はな 額田王

標結はな魂馳せ里路御世の上の黄泉路閉ざせばまだ汝は夢路

しめゆはなたまはせさとじみよのへのよみじとざせばまだなはゆめじ  2009/9/14

 

元歌

万葉集 151 額田王

かからむの懐(おもひ)知りせば大御船泊(は)てし泊まりに標結はましを

 

天智天皇御不予の際の妃額田王の挽歌である。

標(しめ)は悪霊などが入らないようにするもの。呪術的な言霊として使っている。

私の歌の標は「茜さす紫野行き標野行き・・」の標と同じ意味で使った。

 

滋賀を血濡らし 高市皇子

知らぬ地を 畏みて汝は 親の敵 気高き戦 宮の目の
野路身添ひしは 十市なる 夜半に哀れは しみ通る
死にはさせじと 生臭く 眼とじせさば にじる音
見し吾は兄 はやるな血 音端ひそみ 東雲の
闇裂く息か 猛き手の 矢を放て皇子 滋賀を血濡らし

 

しらぬちを かしこみてなは おやのてき けだかきいくさ

みやのめの のじみそひしは とおちなる やはにあはれは

しみとおる しにはさせじと なまぐさく まなとじせさば

にじるおと みしわれはあに はやるなち おとはしひそみ

しののめの やみさくいきか たけきての やをはなてみこ

しがをちぬらし  2009/12/13

 

元歌

万葉集 158 高市皇子

山振の立ち儀(よそ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく

 

壬申の乱を題材にした長歌。
十市皇女(とおちのひめみこ)は大海皇子と額田王の間の娘で、滋賀朝の皇太子大友皇子の后。
十市皇女を詠った歌は万葉集に四首載っているが、そのうち三首までが高市皇子の悲しみの挽歌である。
十市皇女にとって高市皇子は腹違いの兄弟であり、夫の仇でもあり、恋仲でもあった。
続日本紀 の記事をみると彼女の死は自殺だった可能性がある。

舞う悲しみも 大伯皇女

戻る身は越せ黄葉なか馬の背の舞う悲しみも背子は見るとも

もどるみはこせもみじなかうまのせのまうかなしみもせこはみるとも

伊勢の場を涙流して離散せん去りてし彼方みな叔母のせい

いせのばをなみだながしてりさんせんさりてしかなたみなをばのせい

 

元歌

万葉集 106 大伯皇女

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が一人越ゆらむ

大伯皇女が弟大津皇子を詠った歌は万葉集に六首ある。
大津皇子処刑はあまりにも性急かつ強引なもので、持統天皇側の焦りのようなものが感じられる。
天智天皇が曽我山田石川麿にあらぬ嫌疑をかけ、自害に追い込んだ事件に酷似しているのは、やはりそれが持統天皇のトラウマとなっていたのかもしれない。

『懐風藻』の冒頭に大津皇子の漢詩二篇(内一篇は辞世の歌)、川島皇子の漢詩一篇が載っている。
続けて編者の事件に関する感想が記されているが、親友を裏切る証言をした川島皇子を非難している。
しかし川島皇子の弱い立場を思えば決して責めることはできない。川島皇子も生涯苦しんだことだろう。

 

 

但馬皇女に寄す

但馬皇女に長歌一首
君の見き 山沿ふ杣や 別れ川 儚き仲は 今朝は裂け
枯れぬ木末か 離れなば 二つ身伝ふ 術も経ず
鳥鳴くなりと 眺むかな 叶はぬ花か 他人に問ひ
尽きなく泣きつ 痩せる背や な泣きそ着なな
添えぬ絹衣ぞ

 

きみのみき やまそふそまや わかれがわ はかなきなかは

けさはさけ かれぬこぬれか はなれなば ふたつみつたふ

すべもへず とりなくなりと ながむかな かなはぬはなか

ひとにとひ つきなくなきつ やせるせや ななきそきなな

そえぬきぬえぞ

 

反歌一首
いつぞつい 流る春かな 分かちがわ 嘆きそ聞けな
残し来し娘の

 

いつぞつい ながるはるかな わかちがわ なげきそきけな

のこしきしこの

 

答歌一首 穂積皇子に擬えて
山の間や 手と手持てとて 放れなば 妹をし念い
幾年と悔い

 

やまのまや てとてもてとて はなれなば いもをしをもい

いくとせとくい

 

 

一句毎が回文です。

但馬皇女は高市皇子の宮にありながら(妻)、穂積皇子と激しい恋に落ちる。この三人は実はすべて天武天皇の子であり、異母兄弟同士。

持統天皇は高市皇子の体面を慮って、穂積皇子を滋賀の山寺に遠流とします。

有間皇子

戻る際卦良しとや今策に落ちし

生きし身民なるかな囚はれなば小屋見し

波羅葦僧なれば吾子観のマリアと触ればやも

「束の間や時期過ぎさらむ昼果てて春日群鷺過ぎし山の数」

靄晴れふと有間皇子哀れなぞ要らはじ

都離れはらと流る涙見し紀伊

死地を憎さ舞いやと処刑さるとも 

もどるさいけよしとやいまさくにおちし

いきしみたみなるかなとらはれなばこやみし

はらいそなればあこみのまりあとふればやも

「つかのまやじきすぎさらむひるはててはるひむらさぎすぎしやまのかづ」

もやはれふとありまのみこあはれなぞいらはじ

みやこはなれはらとながるなみだみしきい

しちをにくさまいやとしょけいさるとも    2008/3/24

有間皇子 結び松に

有間皇子に
浦風強き岩代に 皇子や思いを結ぼへる
解けぬ小枝は苦念あれ ゆふてな秘めそ散りの前 

うらかぜつよきいわしろに みこやおもゐをむすぼへる 

とけぬさえだはくねんあれ ゆふてなひめそちりのまゑ

有間皇子は若干17歳で策略に落ち刑死した悲運の皇子。

万葉集第2巻、挽歌の部の冒頭に皇子の歌二首が載る。

岩代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへり見む

作品はこの歌を題材にした。

結局皇子はこの松の枝を解くことが出来なかった。

この有間皇子事件の経緯は「気になる歌」カテゴリーの「わが背子がい立たせりけむ 額田王の難訓歌」の中で触れているので、ご覧ください。

 

姉へ「辞世の歌」

大津皇子に擬えて
悔い断ちて今日泉路へ行かむ 恨まぬも目寂しや
吾消えつ世をなほ一人 居はする姉の故にこそ

くゐたちてけふせんろへいかむ うらまぬもめさみしや 

われきえつよをなほひとり おはするあねのゆゑにこそ  07/07/15 

大津皇子は天武天皇の皇子。

文武両道に長け、特に漢詩は大津皇子から始まったと言われるほど。

天武天皇崩御の直後謀反容疑で逮捕処刑される。

逮捕事由が届け出無しに伊勢神宮に参拝した事だったり、処刑に至る経緯などを含めて極めて不自然なことが多く、これは皇后鵜野讃良の陰謀との説が有力である。

作品中の「泉路」は冥途に向かう道のことで、皇子が死の直前に遺した「臨終」と題された五言絶句の一節、「泉路賓主無し」から引用した。

「泉路賓主無し」

あの世に向かう道には迎える者(主)も行く者(賓)も居ない。

たった一人で暗い冥途への道を歩まなければならないという、皇子の悲痛な思いがこの一節に読み取れる。

弟へ「挽歌」

大伯皇女に擬えて
夕陽な落ちそ二上に 月出ぬ里へ背子送り
姉し吾居んまほろばの 安らめる家四方え消む

 ゆうひなおちそふたかみに つきでぬさとへせこをくり 

あねしわれゐんまほろばの やすらめるいゑよもえけむ  07/07/22

大伯皇女は大津皇子の姉で、母太田皇女が早世したため、姉弟二人だけで幼少期を過ごした。

大伯皇女は史記に残る最初の伊勢斎王である。

大津皇子の謀反事件の切っ掛けとなった伊勢参拝は斎王である姉を訪ねたのだが、大伯皇女にとってその故に弟が刑死したことはより以上に悲しみを増す要因となった。

この日の最期の別れを大伯皇女は歌に遺している。

我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし

 

暁(あかとき)は深夜の2時頃というから、この二人は4時間ほど別れを惜しんで外の露に濡れながら立っていたことになる。

この歌以外にも大津皇子の亡骸を二上山に移葬する時の歌等、全六首が納められている。