源氏物語51帖 「浮舟」より 

浮舟
やるせなく他事の始末に居寄りけり宵に妻死の支度なせるや

やるせなくたじのしまつにいよりけりよいにつましのしたくなせるや

 

薫は許嫁である浮舟の存在を匂宮から隠すため、宇治山荘にかくまう。

しかしそれを知った匂宮は山荘へ行き、浮舟を小舟に乗せて宇治川の小島へ連れ出し一夜を共にしてしまう。

薫とのことで都に引き取られる日取りは近づくのに、匂宮からも求愛の手紙が次々と届けられる。

浮舟は進退窮まってしまった。

そしてついに宇治川に身を投げる決心をする。

自分の死んだ後、匂宮からの手紙が残っては宮にも迷惑がかかるだろうと、夜人目につかないようにそっと庭で手紙を燃やすのだが、お付きの女房に知られてしまう。

女房は「そういう美しい手紙は結婚してもそっと隠してお持ちになればよいのですよ」と諭す。

浮舟が死を決意しているなど、女房はもとより誰も夢にも思ってはいなかった。

 

薫さま雨後の望みは御世に死に黄泉は御苑の業魔去る丘

かおるさまうごののぞみはみよにしによみはみそののごうまさるおか

定めつか澄みし月晴れ川の辺の別れはきつし水が冷たさ

さだめつかすみしつきはれかわのべのわかれはきつしみずがつめたさ

 

 

源氏物語5帖 「若紫」より 紫の上

幼さを愛いと手回し恥も何もしばしは待てと言う幼さを

をさなさをういとてまはしはじもなもしばしはまてというをさなさを

 

18歳の源氏はわらわ病みの加持祈祷のため北山の老僧のもとへ。

ある尼僧の草庵で美しい少女を垣間見る。それは源氏の恋慕する藤壺にそっくりだった。

この少女が藤壺の姪にあたると聞かされた源氏は、手元に引き取って一から理想の女性に育ててみたいと思った。

保護者の尼僧に申し出るが、「あまりに幼い娘ですので、」と相手にされない。

尼僧が亡くなると少女は父親である兵部卿に引き取られることになった。

それを知った源氏はある日強引に少女を略奪し、二条院に連れて来てしまう。

この少女が後に理想的な女性と言われる源氏の正妻、紫の上である。

 

 

源氏物語2帖 「帚木」(ははきぎ)より 頭の中将

妻と娘よ迷いて行く水川の瀬の吾が罪悔いていま夜ごと待つ

つまとこよまいていくみずかわのせのわがつみくいていまよごとまつ

 

2帖は光源氏を中心に若き貴公子4人が雨の夜、女性談義に花を咲かせる。

この時代の貴族の女性観が知れる面白い帖である。一般にこの部分を「雨夜の品定め」と言う。

源氏はもっぱら聞き役だが、それぞれが女性に対する体験談を語り合う。

そんな中、源氏の竹馬の友、頭の中将がこんな失敗談を話す。

「自分はある女性を妻として囲っていた。幼い娘もいたのだがしばらく足が遠のいて、久しぶりに行ってみると家から居なくなってしまっていた。妻は恨みめいたことなど一切言わない控えめな女だったので、本妻から色々な嫌がらせを受けていたことを後になって知った。自分にもう少し思いやりがあったならと後悔している」

この妻は後の帖で夕顔として登場する。

また娘も玉鬘と言い、物語全体の重要な登場人物として後に出てくることになる。

 

帚木は目には見えているのだが近づくと消えてしまうという伝説の木。

 

我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(1)

額田王 万葉集巻1 9
伊(き)の温泉(ゆ)に幸(いでま)す時に、額田王が作る歌
莫囂円隣大相七兄爪謁気  我が背子がい立たせりけむ厳(いつ)樫が本

言わずと知れた万葉集中最大の難訓歌である。

下三句は読めるのだが上二句は千年以上誰にも読めていない。

読めない上二句はさておき、下三句で言えば「我が背子」が誰を指すのかが最大のポイントである。

額田王は一体誰を想ってこの歌を作ったのか。それによってこの歌の意味する所は大きく違ってくる。

一般的に「背子」と呼ぶのは同母の兄弟(いろせ)や自分の夫である。

だからこれは大海皇子(おおあまのみこ)だとするのが一番無理が無い。実際「この背子は大海皇子のことか、、」といった書き方をする解説書が多い。

だがこの歌の作歌状況から推測すると、どうしてもこれは有間皇子の事に思えて仕方がない。

もしこの歌が、この時額田王が随行していた斉明天皇へ献上する為の歌だったらなおさらである。

厳樫(いつかし)とは荘厳な霊力を持つと言われる樫の木で、この「背子」はその下に立ち、神に切実な願掛けをした。

額田王は「い立たせりけむ」つまり「お立ちになったでしょう」と推量の助詞を使っている。

もし自分の夫、大海皇子がかつてこの木の下に立ったことがあると額田王に話していて、旅の途中でその木を見てその話を思い出して詠ったのなら、「かつてあなたがお立ちになった」と表現するのが自然ではないだろうか。

大海皇子は後に兄天智天皇から命を狙われるような事態に見舞われるが、この当時は母斉明天皇の御世であり差し迫って神に懇願しなければならない事情は無かっただろう。

翻って若干17歳の青年、有間皇子は生きるか死ぬかの瀬戸際の旅の途中、この樫の木に差し掛かったのだ。

額田王ならずとも、きっとこの霊木に命乞いの願掛けをしただろうと誰にも想像できる。

源氏物語48帖 「早蕨」より 中君

摘みて来し誰が手そ知れぬ川の菜の我が濡れし袖片敷きて見つ

つみてきしたがてそしれぬかわのなのわがぬれしそでかたしきてみつ

 

父八宮と姉大君を相次いで亡くした失意の中君。そんな中君を少しでも慰めようと、山寺の阿闍梨が若菜を届けさせる。

中君はそんな阿闍梨の思いやりに感謝しながらも、春には親娘三人で若菜を摘んだ思い出が甦り、思わず涙する。

 

我が濡れし袖片敷きて見つ

この時代寝具としての布団は無く、衣のまま就寝した。衣は「そ」と言い衣手(ころもて)を袖(そで)と言う。

 

源氏物語45帖 「橋姫」より 八宮

八宮慈雨なき都川の音のわが娘や見きな宇治闇の地は

はちのみやじうなきみやこかわのねのわがこやみきなうじやみのちは

 

八宮は桐壷帝の8番目の皇子。光源氏が二の皇子なので、その弟宮になる。

源氏が朧月夜に手を出したことで弘徽殿の女御の逆鱗に触れ、罪を逃れるため須磨に退居したとき、源氏の代わりとして周囲から推されたのがこの八宮である。

八宮自身に権力欲が無くても機を見るに敏な連中が放っておかないのは今も昔も変わりはない。

しかし源氏は復活し、以前より大きな権力者として戻ってきた。

そうなるとまた周りは手の平返し。誰も八宮に見向きもせず完全に忘れられた存在になってしまう。

不幸は魅入られた人間に寄り添うもの、八宮にはその後次々と不幸が訪れる。

北の方を亡くし、都の屋敷は火事になり、建て替える財力も無い。

仕方なく、唯一持っていた宇治の山荘に幼い娘二人を連れて住まうことになった。

当時の宇治は鄙びた山の中で、冬は雪が深く都から行くだけでも苦労するような所だった。住むとなると松林を吹き抜ける風の音や宇治川の轟々たる川音が恐ろしいほどである。

都の人たちにすっかり絶望した八宮は、そんな宇治の地で仏道に専念する。

この幼い二人の娘が大君(おおいきみ)中君(なかぎみ)である。

ちなみに大君は長女の呼び名で、中君は次女の呼び名。三女が居ない場合でも中君と呼ぶ。

 

 

源氏物語47帖 「総角」(あげまき)より 

hasihime
はらはらと憩う間も消ゆ別れなれ川雪もまう恋囚はらば

はらはらといこうまもきゆわかれなれかわゆきもまうこいとらはらば

大君
千鳥飛び及ばずか夢遠の地の乙女逝かすは世を一人閉ぢ

ちどりとびをよばずかゆめとおのちのおとめゆかすはよをひとりとぢ

起き伏しの憩いも思う何もかも担うも重い恋のしぶきを

をきふしのいこいもおもうなにもかもになうもおもいこいのしぶきを

 

薫は八の宮(光源氏の弟宮)の一の姫、大君に一目ぼれ、しかし大君はなかなか「うん」とは言ってくれない。

大君は妹の中君の行く末を案じ、妹を薫にもらってほしいと言う。

薫は一計を案じ、親友の匂宮に中君の事を伝える。

匂宮は源氏の孫にあたり、もろに源氏の好色の血を引き継いだプレイボーイ、早速中君にプロポーズするのだが、、

中々都に呼び寄せてくれない匂宮に、大君の気苦労は募るばかり。

ついには病に倒れ亡くなってしまう。

恋に不器用な薫の浅知恵で、結果大君を失い中君も匂宮のものになってしまった。

薫は失意のどん底に、、

写真は国宝源氏物語絵巻橋姫の帖。薫はこの時初めて二人の姫を垣間見る。