長皇子の不可解な相聞歌、弓削皇子の謎かけのような相聞歌、それらを理解するための重要なヒントが「懐風藻」という漢詩集にある。
「懐風藻」は平安時代の日本最古の漢詩集である。
巻頭に大津皇子の辞世の詩や、大津皇子の謀反を通報したという親友川島皇子の詩が載り、また大津皇子事件について編者自身の感想も載っている。
この編者は解説好きと見えて、高市皇子が薨去の際、次期日嗣の皇子をどうするかという会議の模様を詳細に掲載している。
「皇太后(鵜野讃良のちの持統天皇)王侯卿氏を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす」「時に群臣各(おのがじし)私好を挟みて衆議紛うんなり」
持統天皇は皇太子高市皇子が亡くなって、次の日嗣を誰にするのか決めるために王侯卿氏を集め、議論させたがそれぞれの思惑もあって中々決まらなかった。
持統天皇の悲願は孫の軽皇子(草壁皇子の子、後の文武天皇)に譲位することであり、彼女の中でそれ以外の結論はあり得なかった。こんな会議を開いたのも、それを公然のものと決定付けるための手続きに過ぎない。
なので、ある意味台本通りに葛野王(かどののおおきみ)が進み出て、
「神代の時代から我が国はその子孫が相承けて天位を継いでいる。もし兄弟が継ぐようなことがあれば紛争のもととなる」
と発言し粗方軽皇子ということに決まりかけた。
その時、なおも異論を唱えたのが弓削皇子だった。
弓削の皇子の発言内容は記載されていないので分からないが、当然「次の日嗣には兄長皇子がなるべき」と主張したと思われる。
葛野王は一喝して弓削皇子を黙らせた。
持統は大いに満足して葛野王に正四位を与え枢機卿に取り立てた。
以上が「懐風藻」の概略である。
弓削皇子はこの一件で持統天皇から睨まれる立場になってしまった。
このような経緯を見れば、弓削皇子が額田王に宛てた歌の意味が理解できると思う。