我が背子がい立たせりけむ  額田王の難訓歌(2)

有間皇子は孝徳天皇の皇子である。

乙巳の変の後、皇極天皇は弟孝徳天皇に譲位する。

孝徳天皇は難波に遷都するが、左右大臣を失った後、中大兄皇子は皇后間人(はしひと)を初め宮廷人すべてを引き連れ明日香に戻ってしまう。

孝徳天皇は孤独の内に憤死してしまう。

左大臣倉橋麻呂は病死だったのだが、右大臣曽我石川麻呂はあらぬ謀反の容疑を掛けられ、山田寺で一族もろとも自害に追い込まれる。

曽我山田石川麻呂は乙巳の変の際、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を撃つためひそかに仲間に引き入れた人物である。

明日香板葺の宮の大極殿で三韓の義が行われた際、石川麻呂が奏上文を読み上げるのを合図に入鹿に切りかかったのである。

その後中大兄皇子は石川麻呂の娘、遠智娘(おちのいらつめ)を妻に迎える。

その妃との間に生まれたのが、太田皇女、鵜野讃良皇女の姉妹である。

太田皇女は大伯皇女、大津皇子の母親であるが若くして亡くなる。

中大兄皇子はそれほど関係の深い石川麻呂を意図的に自害にまで追い込んだ。

遠智娘はあまりの悲しみに自害する。

鵜野讃良にとってこの出来事は大きなトラウマとなったはずである。のちに彼女は甥の大津皇子に全く同じことをすることになる。

忠誠心の強い石川麻呂を亡き者にし、孝徳天皇を死に追い込んだ今、中大兄皇子にとって残る邪魔者は有間皇子ただ一人である。

 

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