通は夏来よモンゴルへ肉や酒食い 行く今朝や国へ流言も横綱は鬱
つうはなつこよもんごるへにくやさけくい いくけさやくにへるごんもよこづなはうつ 2007/08/6
通は夏来よモンゴルへ肉や酒食い 行く今朝や国へ流言も横綱は鬱
つうはなつこよもんごるへにくやさけくい いくけさやくにへるごんもよこづなはうつ 2007/08/6
08/03/1
責任負わない、
非をあやまらぬ、
無理さへも揃え逃れるね
不潔、、、
中国でしょ?
メタミドホスは!!
08/03/1
終わらぬテロ咆え
国守る務め
イージス今朝の海を・・・
「あ、船!」
悩む、「そこは左へ!」
・・・・・・
ガチ、漁船揺れ、、、、
08/03/1
気を引くウソは
無理に渡すチョコレートへ
本音も知らないで、、、
「まあ許せ、、」さ
見ろ奴の笑顔
腑抜けめ!
まだあけやらぬとおきふぢ こいそめしひよもりのかぜ
うつむくほをにはなゆれて ゐろさへみえねわするゑん
かえるちどりをおふゆうひ みほまつばらのわすれあめ
たへてねなくもよにいきぬ ゑんろさやけしこゐぞせむ
くのうてふやまなをゑんろ はるけきみちとおぼえたり
ゆめじもあわねそえぬよに さすらひつかれゐこいせむ
そふかぜぬくみわんのはる すべてをいとうねざめなり
ほれむおもゐやきろにたち こひゆゑつらしよあけまえ
いまはほをあげふねのなみ そらにきえゆくとりたちよ
こゑさへせめむうつろひて しれぬおもゐやするがわん
うらかぜつよきいわしろに みこやおもゐをむすぼへる
とけぬさえだはくねんあれ ゆふてなひめそちりのまゑ
有間皇子は若干17歳で策略に落ち刑死した悲運の皇子。
万葉集第2巻、挽歌の部の冒頭に皇子の歌二首が載る。
作品はこの歌を題材にした。
結局皇子はこの松の枝を解くことが出来なかった。
この有間皇子事件の経緯は「気になる歌」カテゴリーの「わが背子がい立たせりけむ 額田王の難訓歌」の中で触れているので、ご覧ください。
くゐたちてけふせんろへいかむ うらまぬもめさみしや
われきえつよをなほひとり おはするあねのゆゑにこそ 07/07/15
大津皇子は天武天皇の皇子。
文武両道に長け、特に漢詩は大津皇子から始まったと言われるほど。
天武天皇崩御の直後謀反容疑で逮捕処刑される。
逮捕事由が届け出無しに伊勢神宮に参拝した事だったり、処刑に至る経緯などを含めて極めて不自然なことが多く、これは皇后鵜野讃良の陰謀との説が有力である。
作品中の「泉路」は冥途に向かう道のことで、皇子が死の直前に遺した「臨終」と題された五言絶句の一節、「泉路賓主無し」から引用した。
「泉路賓主無し」
あの世に向かう道には迎える者(主)も行く者(賓)も居ない。
たった一人で暗い冥途への道を歩まなければならないという、皇子の悲痛な思いがこの一節に読み取れる。
ゆうひなおちそふたかみに つきでぬさとへせこをくり
あねしわれゐんまほろばの やすらめるいゑよもえけむ 07/07/22
大伯皇女は大津皇子の姉で、母太田皇女が早世したため、姉弟二人だけで幼少期を過ごした。
大伯皇女は史記に残る最初の伊勢斎王である。
大津皇子の謀反事件の切っ掛けとなった伊勢参拝は斎王である姉を訪ねたのだが、大伯皇女にとってその故に弟が刑死したことはより以上に悲しみを増す要因となった。
この日の最期の別れを大伯皇女は歌に遺している。
暁(あかとき)は深夜の2時頃というから、この二人は4時間ほど別れを惜しんで外の露に濡れながら立っていたことになる。
この歌以外にも大津皇子の亡骸を二上山に移葬する時の歌等、全六首が納められている。

ゆゑなきうれいにこらゐは さびたるみどりおぼろあめ
くやまぬすべをわかむちえ ねつもてふけしせんのよぞ
学生時代ニコライ堂の隣の棟での教室からは、目の前にあの碧色のドームが見えた。
窓のすぐ横にある、非日常的な、ある種異様な美しさに思わず見とれていた記憶がある。
一歩外の通りに出れば、そこここに学生集会の張り紙や立て看板が立ち並び始めていた。
60年代の激しい学生運動の予兆が現れ始めていた。
ちゅうまえんだつるはふもいへのきあやしくさけぬ
なぜおろかにゑみてめそらす こよゐひとりね わをほむれ 07/10/21
ゐえやねくれぬゆめみごろ さけをえていう
あたらしきはるむかゑんとまつのせにふぢもよそほひおわすなり
おいまつうらをふくかぜに ちるもえんなれよわねきぬ
たゑゆけばこそゐとしあめ ほろりへやさすひのでみむ
わんへふねいりそらにほし させやろたえぬこゑむよと
はつひあをぎておもうゆめ ゐかけるみちのますくなれ